上京してお勉強した帰りに、荻生徂徠のお墓へお参り。
港区三田にある長松寺(淨土宗)さんの境内にあります。
徂徠物とあるのは、物部氏の末裔だということから、「物」の一文字を入れています。
荻生徂徠(おぎゅうそらい 1666-1728)は、江戸時代に活躍した学者です。
徂徠は子どもの頃、勝覚寺の近くに住んでいました。
当時、勝覚寺の住職だった覚眼(かくげん)に、四書大全という本を借り受け、勉学の基礎を築きました。
後に五代将軍綱吉の時代、柳沢吉保に取り立てられて出世しました。
覚眼と徂徠の縁により、元禄15年(1702)に、徂徠が「勝覚寺縁起」を著しました。
それには元禄15年12月15日の日付がありますが、赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件(同年12月14日)の翌日です。
すでに幕府のブレーンとして活躍していた徂徠は、討ち入り事件を当然知っていたはずですので、それを思うと歴史のロマンを感じます。
徂徠は赤穂浪士を切腹させた事で反感を買う部分もあったそうですが、当時の法に照らせば打ち首などの処刑相当だったのを、武士の尊厳を保つために切腹をすすめたという事らしいです。
「徂徠擬律書」と呼ばれる文書において、「義は己を潔くするの道にして法は天下の規矩也。礼を以て心を制し義を以て事を制す、今四十六士、其の主の為に讐を報ずるは、是侍たる者の恥を知る也。己を潔くする道にして其の事は義なりと雖も、其の党に限る事なれば畢竟は私の論也。其の所以のものは、元是長矩、殿中を憚らず其の罪に処せられしを、またぞろ吉良氏を以て仇と為し、公儀の免許もなきに騒動を企てる事、法に於いて許さざる所也。今四十六士の罪を決せしめ、侍の礼を以て切腹に処せらるるものならば、上杉家の願も空しからずして、彼等が忠義を軽せざるの道理、尤も公論と云ふべし。若し私論を以て公論を害せば、此れ以後天下の法は立つべからず」
長生の方々は荻生徂徠についてよく語りますが、此地に残り医業で貢献した実兄である荻生春竹については語られていません。何か春竹についてエピソードを教えてください。