三が日は釈迦堂正面の扉を開きます。
ガラス越しではありますが、勝覚寺のお釈迦さま、阿難、迦葉、そして四天さまを拝観して頂けます。
Shokakuji WebSite
ガラス越しではありますが、勝覚寺のお釈迦さま、阿難、迦葉、そして四天さまを拝観して頂けます。
今年の春から始まった「お寺でYoga」
今回で18回目となります。
私も時間が取れる時には参加していますが、段階的な個人的な感想をいくつか。
1:ヨガをなめててゴメンナサイ
体操の延長だろうなんて思ってたんですが、1時間以上ミッチリと身体を動かし続けるのは思っていたより大変でした。
キツイとか無理とかではないんですが、奥深さを知る事も出来ました。
今は気温も低いのでそこまでではないですが、夏場はエアコンを使っていても、かなり汗をかきます。
かといって身体に無理が来るほどでもないのが面白い所です。
2:瞑想・阿字観への活用
呼吸法として教わること(自分が知らなかっただけですが)が多いです。
真言密教の作法の中に、数息観という呼吸法がありますが、ヨガをやることによって、よりいっそう理解が深まりました。
3:味覚の変化
直接ヨガの効用・効能かどうかは分かりません。
ヨガのポーズを取る時に、中年太りしたこの身体では物理的な制約を感じざるを得ません。特にお腹周り。
次回のヨガの時にはもう少しかっこよくポーズを決めたい、なんて思っていると、明らかに太りそうなものを口にしなくなってきました。
4:意識の変化
これが本来のヨガの目的だと思いますが、自身でもヨガとの関連性を立証・自覚・知見するには至っていません。
まぁ、でも何となく変わったなぁ程度です。
言葉にするのは難しいですけど、知足(足るを知る)は当てはまるかもしれません。
学生時分、古代インドでのヨガ(Yoga)という言葉は轅(ながえ)の意味だと教わりました。
轅はリヤカーや荷車、牛車で、荷物を載せる台車の部分と、車や人、牛とを結ぶ棒の部分です。
何かと何かを繋ぐものというのが本来の意味です。
そう、心と身体を結ぶものとしてのヨガ。
自分と他者を結ぶものとしてのヨガ。
自分とホトケサマを結ぶものとしてのヨガ。