四天王と伝説

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この地にこのような巨大で良作の四天王が四体揃って伝来している事が、勝覚寺にとっても地域にとっても一番の宝であり、また謎でもあります。

そもそも当山の本尊釈迦如来像は、天竺の伝説の大仏師毘首羯磨(びしゅかつま)が、謹刻した三体の内の一体で、大同元年(806)に弘法大師空海が密教を入唐求法し、帰朝の折に請来したと伝えられています。 その像は五寸七分(約17cm)と伝えられ、その後、勝覚寺の本尊として奉られるようになりました。

鎌倉時代、武士の時代になって世が荒れる中、大仏師運慶は国家安穏・護国鎮守を祈念して、身の丈七尺に及ぶ四天王像を彫り上げて、龍宮に住む龍神に捧げる為に海中に流しました。 しかしながら、龍宮には届かずに、三浦半島、房総半島を廻り九十九里浜のとある地に流れ着きました。そこを現在では「四天木(してぎ)」(現大網白里町といいます。その昔は四天王が流れ寄ったので、四天寄と表記していました。

漂着した四天王は、松ヶ谷村の勝覚寺の釈迦如来を守るため運んで欲しい、と漁民に伝えた。 人力で運ぶしかありませんが、隣村まで運んだは良いものの、あまりの重さに皆の顔が青ざめたので、そこを「粟生(あお)」(現九十九里町)と言います。
さらに、担いで運び、途中で休息を取り、担ぐ肩を左右入れ替えました。肩を替えたので肩替え、その場所が「片貝」と呼ばれるようになった。 道を進んで川にぶつかり、勝覚寺を尋ねた所、「まだ先だ」と言われたのが、今の「作田(さくだ)」(現九十九里町)。
さらに道中を進んだが、中途で戻すか戻さぬか相談思案をした所が今では「本須賀(もとすか)」(現山武市)。
命からがら担いで来たのが、今の「井之内(いのうち)」(現山武市)、明日は寺に着くから今夜は宿を取ろうと休んだのが、「宿(しゅく)」(現山武市)
あろうことか、翌日勝覚寺を通り過ぎ、川(現木戸川)まで出てきてしまった。「困った困った」と頭を抱えたのが、「小松(こまつ)」(現山武市)
川の向こうは「折戸(おりと)」(現山武市) 取って帰して、勝覚寺に辿り着き、「おっと困った、間違えた」(折戸、小松、松ヶ谷)と言ったとか言わなかったとか・・・。 という地元の地名にまつわる伝説が残されています。

その後、運慶がその話を伝え聞き、「毘首羯磨御作の釈迦如来様の所に、私の彫った四天王が奉られるとは素晴らしいことだ。しかし、五寸七分の釈迦如来像と、七尺の四天王では釣り合いが取れない。私が半丈六の御前立ちの釈迦如来像を造ろう」と言い、納められたのが今の釈迦如来坐像と伝えられています。

さて、その四天王は、

  • 持国天(東方守護) 2.13m
  • 増長天(南方守護) 2.03m
  • 広目天(西方守護) 2.07m
  • 多聞天(北方守護) 2.07m

各々2メートルを越す巨像で、堂々とした体躯を誇っています。 そして、その迫力あるお姿は参詣する者を圧倒し、800年間の永きに渡り、本尊の釈迦如来を護持し、信心の善男善女を守護して下さいます。

四天王と四方守護

ある時、お釈迦様は四天王に言いました。
「私が涅槃となった後も、本当の教えを守護しなさい。未来に三人の悪い王が現れるだろう。お前達がみんなで力を合わせ法を護りなさい。」
その後お釈迦様の亡くなった後、帝釈天と四天王はお香や華、音楽や踊りでお釈迦様の舍利を供養しました。そして、
「お釈迦様は我々に法の守護を託して涅槃に入られた。今、我々はその為に法を守護する。」
と帝釈天が言いました。そしてまた、
「持国天よ、お前は東方において佛法を守護せよ。」
「増長天よ、お前は南方において佛法を守護せよ。」
「広目天よ、お前は西方において佛法を守護せよ。」
「多聞天よ、お前は北方において佛法を守護せよ。お釈迦様は私が涅槃に入った後三人の悪王が出現するとおっしゃられた。もし、その王が佛法を壊するようなことがあれば、佛法を擁護せよ。」
と言いました。
これで四天王が東南西北の四方の佛法守護神となったのです。

~「阿育王経巻第六」より訳出~